夢の途中

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 午後六時前だからか、定食屋にまだ客はいなかった。
「おばさん、焼肉定食お願いします」
 厨房にそう叫んだボクは、作業服を脱いでTシャツの袖を捲り上げる。緑色のカラーボックスの中に乱雑に置かれていたコミックの中から、お気に入りの一冊を取り、店の一番奥の席に腰掛けた。


 店の端の高い位置に設置された真新しいテレビからは、台風の接近を知らせるニュースが流れている。テレビの横の小さな棚には、埃のかぶった招き猫が、いつもとかわらず店内を見下ろしていた。


「今日は随分早いね。仕事暇なのかい?」
 定食屋を一人で切り盛りするおばさんが、水を持って厨房から出てきた。おばさんは、店の上にあるボクの部屋の大家でもある。
「今日は現場がたまたますぐ近くだったんだよ。だから親方に頼んでそのまま帰ってきたんだ。ラッキーって感じ」
「そりゃよかったね。で、焼肉定食だったね」
 ボクはそれに答える代わりに、右手で敬礼をしてみせた。おばさんは、あははと笑いながら厨房へ戻っていった。


 大学受験に失敗したボクは、就職先を求め、この町にやってきた。高卒に職が少ないのは知っていたが、少なくともボクの生まれ育った小さな村よりはまだましだと思われた。3年前のことだ。
 予想に反して仕事はすぐに見つかった。小さな工務店だった。アルバイトとしての採用ではあったが、それでも一人でなんとか暮らせるだけの給料はあった。また、去年からは正社員扱いとなり、少しではあったがボーナスも支給されるようになっていた。


「あいよ、お待ちい」
 コミックを中ほどまで読み進めた時に、焼肉定食がやってきた。醤油ベースのタレが絡んだ豚肉、千切りキャベツ、ご飯のすべてが特大大盛りだ。
「いつもながら、ここの焼肉定食は絶品だよ」
「あんたのその顔見てると、こっちまでうれしくなるよ」
 おばさんが大きな口をあけて笑った。金歯と銀歯が口の中で光った。


「そういえばあんた、大学も通ってるんだって?」
「幸平の奴、しゃべった?」
 幸平は同じアパートの住人だ。同じ年であり、この町の唯一の友人でもあった。


 今から2年ほど前、通信教育でも大学の単位履修や学位取得が可能であることを、インターネットで見て知った。入試試験が不要である上、年間の学費も数万円と格安だった。


 そこでボクは、その年の秋から学生となり、毎夜、自室で勉強を始めていた。
 大学まで出向いて講義を受けなければ履修できない単位もあったが、これについては、まとめて休暇をとるつもりでいた。あきらめた将来の夢が、可能性として再び目の前に出現したような気がしていた。


「そんなに勉強して、将来なりたいものでもあるのかい?」
 おばさんが言った。
「そんなんじゃないよ」
 ボクはそう答えた。顔が少しだけ赤らむのが自分にもわかった。


 将来の夢が司法への道であることなど、告白するシチュエーションではないと思われた。ただ、その夢に向かう道筋は、すでに現実のものとして、ボクにははっきりと見えていた。



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