女心と秋の空

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「この界隈の最近の噂、聞いたことありませんか?」
 豚キムチ丼を勢い良く口に運びながら、部下が言った。今年の春の新入社員だ。
「おい、飯粒を飛ばすなよ」
 すき焼き丼を食べ終えていた俺は、茶を飲んでいた。
「さっそうと現れて、チンピラ男を飛び蹴りで倒すモモレンジャーの噂ですよ」
―――モモレンジャー?
 そういえば先日もそんな話を耳にしていた。


 この街では、いろいろなことが起こっては消える。挙句の果てがモモレンジャーか。絶え間ない変化は、女心と良く似ている。


「お前も街を歩くときには気をつけろ」
「それってどういう意味っすか?」
「別に他意はないよ」
 俺たちは清算をすませて店を出た。


 ここの所、風が随分涼しくなっていた。スーツにネクタイ姿でも、地獄的な苦痛はない。考えてみれば、俺にクールビズは無縁だった。俺たちは混みあう歩道を駅に向かった。


「午後は、商談中の例の得意先をまわるからな」
「了解です」
 年齢はかなり若いが、なかなかガッツもパワーもある男だ。しかしそれだけに、一歩間違えば転がり落ちるのも早いタイプだ。ただ、この危なっかしさが若さのメリットでもある。


 歩道前方で、一組の若いカップルが立ち止まって口論をしているようだった。
「もう前のことじゃん。いいかげん許してくれよぉ」
 ジーンズにアロハ姿の男が、女にそういっていた。
 女に隠れて暴れることもあるのだろう。顔には大きな青あざがあった。


 俺は女の方を見た。


 ニット地だろうか。ベージュのミニから伸びたスリムな足を、茶のロングブーツが受け止めていた。 ブーツと同色のパーカー、黒のショートヘア、目鼻立ちのはっきりとしたなかなかの美人だ。


「今度嘘ついたら、ゆるさないんだからぁ」
 彼女はそういって男を睨みつけた。腕っ節の強そうな男が、意外にも「ひい」と悲鳴を上げた。暴れ者のこの男も、どうやら彼女には頭があがらないようだった。


「あの男のアザも、モモレンジャーの仕業ですよきっと」
 部下は小声で俺にそう耳打ちをした。
「馬鹿な」
 この街にそんなヒロインがいるわけがない。そもそも、法治国家にその存在が許されるか疑問だ。


「それより得意先向けの契約書、ちゃんと持ってるか?」
 俺の言葉に、部下は歩きながらアタッシュケースの中を確認した。
「ばっちりっす」
 部下は俺に敬礼をしてみせた。その仕草がなんとも古くさくて滑稽だった。


 あははと俺は笑った。視線の先に空が映った。高く青い空には、うろこ雲が広がっているのが見えた。考えてみれば、俺はいつも前ばかりを見て生きてきた。空をゆっくりと見上げたことなど、なかったように思う。


 秋の到来を、空ははっきりと伝えてくれていた。



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