乙女との賭け
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ボクを見たカウンター内のバーテンダーが笑顔でそういった。カウンター席には、一人の若い女性が座っている。
「いえ、待ち合わせはしていませんが」とボクは答えた。するとカウンターの女性がボクに振り返った。長い髪がきれいだ。
「ごめんなさい」と彼女はボクに頭を下げた。ボクは、突然遭遇したこの状況を、まったく理解できないでいた。
「とりあえず、カウンターへどうぞ」
バーの入り口に立ちつくすボクに、バーテンダーがそういった。ボクは「はい」と答えると、女性の席から少し離れた位置に座った。
客はボクと彼女の二人だけだった。彼女の美しさが髪だけでないことを、ボクはさりげなく確認した。
彼女は、独り言のようにいった。彼女の視線の先には、小さなカクテルグラスがあった。カクテルグラスに注がれていた液体は、彼女の心をうつし出すかのようなチャイナブルーだ。彼女は静かにそれを見つめていた。
ボクはバーテンダーにいった。
「はい」
ロックアイスをアイスピックで手際よく削ったバーテンダーは、それをグラスにそっと置いて、スコッチを注いぎ軽くステアした。カウンターにコースターを敷き、その上にグラスを置く。カランとロックアイスが音をたて、カウンターを照らすライトの光が、琥珀色に反射した。
彼女がいった。
「もう、いいじゃないですか」
グラスを磨き始めたバーテンダーは彼女にそういった。バーテンダーの優しさが、その言葉から理解できた。
「来る……に賭けたら、駄目ですか」
突然の自分の発言に、ボク自身が驚いた。彼女はそっとボクに顔を向けた。
彼女はそういって微笑み、そして言葉を続けた。
「あなたはきっと、とても優しい」
彼女の頬が、ほんのり赤く染まっているように見えた。ボクは少し恥ずかしくなり、シーバスリーガルを口に運んだ。あまくとろけた液体は、喉をすり抜け、胃壁を熱く焦がした。
心のほんの片隅でボクが願ったその時、ドアの開く音がした。彼女はドアを振り返り、そして少し驚いたようだった。そこには一人の男が立っていた。男を境にして、その向こう側の空間は、夜の街の雑踏と、行き交う車のノイズで満ちていた。
彼女はそういうと席を立った。ボクを見つめる彼女の顔は、少しだけ寂しげだった。
「楽しかったよ」
ボクはいった。彼女はそれには答えず、ボクから視線を外した。俯いたまま、彼女は小走りで店を出て行った。ドアが閉まると、その瞬間から店は再びジャズで満たされた。
そういいながも、ボクは敗北的な気分を味わっていた。
「いいえ、きっと賭けはまだ続いていますよ」
バーテンダーは、静かに答えた。ボクにはその意味がわからなかった。
バーテンダーは、マルボロをくわえて火をつけると、ふっと煙を吐き出し、話し始めた。
「彼女、悩み多き乙女でしてね」
バーテンダーのその言葉は、ボクをさらに混乱させた。
「彼女はよく、カウンターのこの席で一人、涙を流していました」
バーテンダーは、つい先ほどまで彼女が座っていた席を見ていった。そこに座る彼女の残像が、一瞬見えた気がした。
「どんな悩みかは知りませんが、いろいろと問題を抱えていたようです」
「先ほどの男性に原因が?」
「ええ、たぶん」
バーテンダーは一通りの仕事を終えたらしく、グラスを用意するとジャックダニエルを注ぎ、口に運んだ。
「違った?」
「ええ、たぶん吹っ切れたんでしょう。だから、今日の待ち人は、先ほどの男性ではありません。つまり、賭はまだ続いているんです」
バーテンダーはそういった。だが、それは違うとボクは思った。その他の男性などいるはずがない。待ち合わせは彼女の嘘であり、実際には存在しないものだったからだ。
それに……。仮に賭が続いていたとしても、彼女がいなければ意味がない。
バーテンダーは、ボクの心を読んでいるかのようにそういった。そしてその言葉は、明らかな確証があるかのような響きを持っていた。
「いらっしゃいませ」
たった一週間のブランクにもかかわらず、バーテンダーの声がとてもなつかしい。しかし、店には彼女はおろか誰も客がいなかった。ボクは少し落胆し、そして気がついた。
そんな都合よく、物事が展開するはずがない。
ボクは先週と同じ席に座り、シーバスリーガルのロックを注文した。
バーテンダーは、はいとうなずき、手際よく氷を砕いた。
「素敵な人と待ち合わせをしているんだと、あの日の彼女は微笑んでいいました」
バーテンダーは、先週の話を切り出した。話は続く。
「彼女は、素敵な人の特徴を私に話したのです。そしてその直後、店にやってきた男性は、まさにその人そのものでした」
氷をグラスにそっと置き、シーバスリーガルを注ぐ。琥珀色の液体が、氷を優しく包み込む。
「それがあなたです。だからこそ、私はあなたを待ち合わの相手だと間違えたわけです」
軽いステアの後に、バーテンダーはボクの前にグラスをそっと置いた。
彼女の声がした。
振り返ると、死角になっていたボックス席の片隅に、彼女は一人腰掛けていた。テーブルにはチャイナブルーのカクテルがあった。
「私の待っていた人が、本当にやってきたもの」
彼女は笑顔でそういうと席を立ち、ボクの隣へと移動した。
彼女が微笑んだ。改めて彼女の美しさを痛感した。
「ボクでいいの?」とボクはきいた。
「あなたは私の心の中にいた素敵な人、そのものだもの」
彼女はそういった。瞳が澄んでいた。
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