乙女との賭け

Sponsored Link


 ボクはある街を、仕事で初めて訪れていた。仕事を終えたその日の夜、ホテルの近くに素敵なショットバーをボクは見つけた。時間が早かったためか、店内はとても静かだった。流れるジャズが心地よい。


「いらっしゃいませ。お待ち合わせですね」
 ボクを見たカウンター内のバーテンダーが笑顔でそういった。カウンター席には、一人の若い女性が座っている。
「いえ、待ち合わせはしていませんが」とボクは答えた。するとカウンターの女性がボクに振り返った。長い髪がきれいだ。
「ごめんなさい」と彼女はボクに頭を下げた。ボクは、突然遭遇したこの状況を、まったく理解できないでいた。
「とりあえず、カウンターへどうぞ」
 バーの入り口に立ちつくすボクに、バーテンダーがそういった。ボクは「はい」と答えると、女性の席から少し離れた位置に座った。
 客はボクと彼女の二人だけだった。彼女の美しさが髪だけでないことを、ボクはさりげなく確認した。


「待ち合わせ、嘘だったんです」
 彼女は、独り言のようにいった。彼女の視線の先には、小さなカクテルグラスがあった。カクテルグラスに注がれていた液体は、彼女の心をうつし出すかのようなチャイナブルーだ。彼女は静かにそれを見つめていた。


「シーバスリーガルをシングル、ロックで」
 ボクはバーテンダーにいった。
「はい」
 ロックアイスをアイスピックで手際よく削ったバーテンダーは、それをグラスにそっと置いて、スコッチを注いぎ軽くステアした。カウンターにコースターを敷き、その上にグラスを置く。カランとロックアイスが音をたて、カウンターを照らすライトの光が、琥珀色に反射した。


「来るはずもないのに、待ち合わせだなんて嘘をいってしまって」
 彼女がいった。
「もう、いいじゃないですか」
 グラスを磨き始めたバーテンダーは彼女にそういった。バーテンダーの優しさが、その言葉から理解できた。
「来る……に賭けたら、駄目ですか」
 突然の自分の発言に、ボク自身が驚いた。彼女はそっとボクに顔を向けた。


「ありがとう」
 彼女はそういって微笑み、そして言葉を続けた。
「あなたはきっと、とても優しい」
 彼女の頬が、ほんのり赤く染まっているように見えた。ボクは少し恥ずかしくなり、シーバスリーガルを口に運んだ。あまくとろけた液体は、喉をすり抜け、胃壁を熱く焦がした。


 それから二時間と少し、ボクは彼女と会話を楽しんだ。彼女はチャイナブルーのカクテルを二杯、ボクはシーバスリーガルのシングルロックを三杯、おかわりをした。最初は途切れ途切れの2人の会話も、次第に軽いトークへとかわり、ついには、恋人同士のように華やいだ。


――― この時間が永遠に続くなら。
 心のほんの片隅でボクが願ったその時、ドアの開く音がした。彼女はドアを振り返り、そして少し驚いたようだった。そこには一人の男が立っていた。男を境にして、その向こう側の空間は、夜の街の雑踏と、行き交う車のノイズで満ちていた。


「ごめんなさい」
 彼女はそういうと席を立った。ボクを見つめる彼女の顔は、少しだけ寂しげだった。
「楽しかったよ」
 ボクはいった。彼女はそれには答えず、ボクから視線を外した。俯いたまま、彼女は小走りで店を出て行った。ドアが閉まると、その瞬間から店は再びジャズで満たされた。


「賭けに勝ったんですよね」
 そういいながも、ボクは敗北的な気分を味わっていた。
「いいえ、きっと賭けはまだ続いていますよ」
 バーテンダーは、静かに答えた。ボクにはその意味がわからなかった。


「あなたなら、お話しても問題ないでしょう」
 バーテンダーは、マルボロをくわえて火をつけると、ふっと煙を吐き出し、話し始めた。
「彼女、悩み多き乙女でしてね」
 バーテンダーのその言葉は、ボクをさらに混乱させた。
「彼女はよく、カウンターのこの席で一人、涙を流していました」
 バーテンダーは、つい先ほどまで彼女が座っていた席を見ていった。そこに座る彼女の残像が、一瞬見えた気がした。
「どんな悩みかは知りませんが、いろいろと問題を抱えていたようです」
「先ほどの男性に原因が?」
「ええ、たぶん」
 バーテンダーは一通りの仕事を終えたらしく、グラスを用意するとジャックダニエルを注ぎ、口に運んだ。


「しかし、今日の彼女は違いました」と、バーテンダーは話を続けた。
「違った?」
「ええ、たぶん吹っ切れたんでしょう。だから、今日の待ち人は、先ほどの男性ではありません。つまり、賭はまだ続いているんです」
 バーテンダーはそういった。だが、それは違うとボクは思った。その他の男性などいるはずがない。待ち合わせは彼女の嘘であり、実際には存在しないものだったからだ。
 それに……。仮に賭が続いていたとしても、彼女がいなければ意味がない。


「この賭の結果は、後日判明するはずです。もしよろしければ、もう一度それを確かめに、ここへいらしてみてください」
 バーテンダーは、ボクの心を読んでいるかのようにそういった。そしてその言葉は、明らかな確証があるかのような響きを持っていた。


 ボクは次の朝一の便で東京へ帰り、多くのスケジュールを消化した。そしてちょうど一週間の後、早めに退社し夕方の便で街へと降り立った。空港からショットバーまでは車で15分程度だ。できることなら、彼女に再び会いたかった。そしてバーテンダーのいう賭の結果を、ボクは知りたかった。


 ショットバーのドアを開けた。
「いらっしゃいませ」
 たった一週間のブランクにもかかわらず、バーテンダーの声がとてもなつかしい。しかし、店には彼女はおろか誰も客がいなかった。ボクは少し落胆し、そして気がついた。
 そんな都合よく、物事が展開するはずがない。


「来てくれましたね」と、バーテンダーが微笑んだ。
 ボクは先週と同じ席に座り、シーバスリーガルのロックを注文した。
 バーテンダーは、はいとうなずき、手際よく氷を砕いた。
「素敵な人と待ち合わせをしているんだと、あの日の彼女は微笑んでいいました」
 バーテンダーは、先週の話を切り出した。話は続く。
「彼女は、素敵な人の特徴を私に話したのです。そしてその直後、店にやってきた男性は、まさにその人そのものでした」
 氷をグラスにそっと置き、シーバスリーガルを注ぐ。琥珀色の液体が、氷を優しく包み込む。
「それがあなたです。だからこそ、私はあなたを待ち合わの相手だと間違えたわけです」
 軽いステアの後に、バーテンダーはボクの前にグラスをそっと置いた。


「賭けに勝ったね」
 彼女の声がした。
 振り返ると、死角になっていたボックス席の片隅に、彼女は一人腰掛けていた。テーブルにはチャイナブルーのカクテルがあった。
「私の待っていた人が、本当にやってきたもの」
 彼女は笑顔でそういうと席を立ち、ボクの隣へと移動した。


「来てくれるって信じてた」
 彼女が微笑んだ。改めて彼女の美しさを痛感した。
「ボクでいいの?」とボクはきいた。
「あなたは私の心の中にいた素敵な人、そのものだもの」
 彼女はそういった。瞳が澄んでいた。


 バーテンダーがシェイカーを振り始めていた。チャイナブルーのカクテルを、新しく作リ直すに違いなかった。ボクらの素敵な時間が、始まろうとしていた。



Sponsored Link


■お勧め作品