春の日のEメール

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 午前11時台の電車は意外なほど空いていた。ボクのちょうど真正面に座る女性は、手に持つスマートフォンの画面を見ていた。
 栗色の長いストレートの髪は、小顔の白く美しい顔にとても似合っていた。彼女をやさしくなでる外からの春風が、静かに髪を揺らしている。彼女は指を器用に動かし、スマホを操作した。たぶんはメッセージのやり取りをしているのだろう。


 時折軽く笑顔を見せるものの、その直後にちょっとだけ膨れてみせる。それは、朝一の打ち合わせで疲れた僕を和ませてくれていた。
 メッセージの相手は誰だろう?単なるメル友だろうか?それとも彼氏?
 そう思ったとき、スーツの胸ポケットが小刻みに振動し停止した。メッセージでなくメールであることから、ビジネスメールの可能性が高かった。ボクはスマホを取り出して着信メールを確認した。未登録のアドレスからだった。メールを開いた僕は、文字通り、飛び上がるほどに驚いた。


<そんなに私を見ないでくれる?>


 彼女からのメールだった。ボクは、彼女と画面を交互に見た。彼女は、スマホの画面を見続けている。どうして彼女がボクのアドレスを知っているんだろう。彼女とどこかで出会っているのだろうか。頭をフルに回転させてみたが、彼女の記憶にたどり着くことはできなかった。
 彼女に目を向けた。彼女は少し不機嫌な表情を見せた。直後に再びメールが届く。


<ほら、また見た>


 ボクは、急いで返信メールを送信した。


<どうしてボクのアドレスを知ってるの?>


 彼女は、スマホから目を上げた。目が合った。ブラウンの瞳が眩しいほどに美しい。過度の緊張が全身を堅くした。彼女は表情を変えることなく、再びスマホ画面に視線を落とした。直後にまた、メールが届く。


<私には、何でもわかるの>


 生きていると、いろいろなことに遭遇する。その多くは、あくびが出るほどありきたりな出来事だ。しかし極稀に、理解を超越したような珍事に遭遇することもある。今日のそれは、どう考えても後者に属することだろう。珍事への対処方法が、まったくわからない。メールは続いた。


<ねえ、右手方向十メートル先を見て>


 ボクは指示された方向に目を向けた。するとそこには、スマホを手にした意外な人物がいた。笑顔で手を振っている。同僚だった。彼は、あははと笑ったように見えた。珍事の最中、彼の笑いに付き合っている暇などなかった。同僚は、スマホに目を落とした。
 直後に再び彼女からメールが届く。


<昨日スマホかえたの。笑わせてもらったわ>


 スマホを新しくした彼女が、なぜ笑うのだろう。混乱の度合がさらに深まった。彼女はスマホをベージュのバーキンにしまった。かわりに文庫本を取り出した。先週末にロードショーした邦画の原作本だった。彼女は軽く伸びをした後、本を開き、それに目を落とした。本を読む彼女もまた、美しかった。


<だから俺だって>


彼女からのメールは、なおも続いていた。



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