彼女の出勤前のひととき

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 ユーミンの昔の曲が突然リビングに流れ出した。私は、ピンクのバーキンから、2つあるスマホのうち1つを取り出た。素早く着信ボタンをタップし、手グシで髪をかきあげてスマホを耳元にあてる。


「もしもし、アキです」
 トーンは、意識していつもよりも高めに発声した。
「あ、先生!お久しぶりです。ここの所、メールもお電話もいただけなかったので寂しく思っていたんですよ」


 壁にある大きな鏡の中には、デニムのパンツに白いTシャツ姿の細身の女性がこちらを見ていた。屈託のない笑顔のその女性は、本来の私ではない。


 私は少し甘えた声を演出しながら、白いソファーにゆっくり腰掛け、サイドテーブルの上にあったシステム手帳を引き寄せて開いた。この白のマルチカラーには、私の生活のすべてが書き込まれている。たまたま今日の同伴スケジュールは、まだ埋まっていなかった。
「ええ、喜んで!では夕方5時に銀座で。楽しみにしています」


 電話を切ると、システム手帳の今日の欄に<K先生17:00>とだけ書いた。スマホのスケジュール管理には、いまだに移行できないでいた。パリで見つけたお気に入りのアンティーク置時計が、白いチェストの上で静かに時を刻んでいる。毎日通う美容室の予約時間がせまっていた。


 システム手帳を閉じた私は、立ち上がるとバルコニーに出た。バルコニーからは、昼下がりの東京を見下ろすことができる。今日は風がなく、大気がよどんでいた。いくつかの高層ビルの向こうには、新宿の摩天楼がかすんで見える。観葉植物に水をやりながら、私は今日の服と靴、バッグのコーディネイトを考えた。


 昼寝から目覚めたのか、チワワのべスもバルコニーにやってきて「ワン」と吼えた。1200万人以上の人々が暮らすこの都市で、彼は唯一、私が心を開くことのできる友だった。



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