残された自由2

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 めずらしく、作業が順調に進んていた。午前中、出版向けの執筆を一気に進め、午後になって連載の執筆にとりかかった。午後二時頃、薬の作用が切れはじめ、頭の中いっぱいのノイズが執筆を妨げた。
しかし問題はなかった。安定剤は、ノイズを完全に除去してくれる。


 薬を使うようになって気づいたことがある。悩みの多くは、自分が作り上げた虚像だということだ。確かにかかえる問題は、事実としてそこに存在する。しかしそれを何倍にも拡大させ、誇大解釈していることが少なくない。なぜなら、薬が効き始めたその瞬間に大敵の多くはいとも簡単に小さくなるか、消え失せてしまうからだ。恐怖を自ら作り上げ、それに自分自身が恐怖する。人間だけが持つ、いわば特殊な能力だった。


―― たまには飲みにでも出よう。


 そう思えるのは、精神状態が安定している証かもしれない。書斎の机に積みあがる書籍をかき分け、埋もれていたスマートフォンを探し出して電源を入れた。銀座界隈で飲むことにして、メモリー登録にあった銀座の店の子に電話をかけた。


「もしもし、アキです」
 スマホの向こう側に、数ヶ月ぶりに聞く明るい声がした。
「ご無沙汰してます。小林です。覚えてますか?」
「あ、先生!お久しぶりです。ここの所、メッセージもお電話もいただけなかったので寂しく思っていたんですよ」
 何度かメッセージをもらっていた。返事をする余裕はなかった。しかし「先生」はやめてほしい。年齢にさほどの差はない。


 午後5時に日本橋寄りにあるホテルのロビーで待ち合わせ、食事をしようとさそった。そのホテルは、彼女との待ち合わせ場所に何度か使ったことがあった。
「ええ、喜んで!では夕方五時に銀座で。楽しみにしています」
 同伴は彼女の収入に跳ね返る。そういう意味で、彼女はうれしそうだった。


 電話を切ったボクは、ふと窓に目を向けた。窓には、昼下がりの東京が広がっていた。少しだけ、身体がこわばるのがわかった。ボクは先日、残された自由として、一つの決意をしていた。薬が効きはじめたのがあと数分遅ければ、今のボクはきっと存在しなかったろう。


 可能性の完全拒絶だけは、持たずに生きていこう。


 今日は風がなく、大気がよどんでいる。大きな森の向こう側に見える高層ビル群が、わずかにかすんで見えた。ボクは、執筆作業を進めることにして、キーボードをたたき始めた。待ち合わせまでには、まだ少しだけ時間があった。今日は気持ちよく、酒が飲めそうだった。



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