残された自由
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精神科医が新たに処方した安定剤は、ボクには少しあわないようだった。たった一錠の服用でも、極度の眠気を誘発してしまう。とてもではないが、執筆を進めることはできない。入稿期日がすぐそこに迫っていた。
ボクは、鏡をまな板代わりにして、錠剤をサバイバルナイフで二つに割った。半月状になったその一つを口に放り込み、奥歯で噛み砕いて、水で喉へと流し込んだ。
マンションの窓の外には、大きな森と高層ビル群が見える。しばらくの間、ボクはその景色に目をやった。初夏の日差しを受けた森の緑は、有り余るほどの生命力を湛えていた。
それに比べてボクはどうだろう。生きるために必要な力は、かけらさえも持っていないように思えた。もがくことさえ、今のボクにはできそうにない。
「ボクに残された自由とは、なんだろう」
そうつぶやいた直後、あることに気がついた。
高層階に位置するこの部屋は、思えば、最後の自由をボクに与えてくれている。決行はいつでもできるし、数秒あればケリがつく。決意にも似た意識が、ボクの中に満たされようとしていた。身体が小刻みに震えるのがわかった。
次の瞬間、めまいに近い感覚に襲われた。脳内の複数のノイズが、ひとつふたつと消えていくのがわかる。雑踏の中から、無音の部屋に移動したかのような状況変化だ。
安定剤が効力を発揮しはじめていた。
僅かな時間の中で、心が安定していくのがかわる。荒波が突然なぎとなる。今まで悩んでいたことのすべてが、馬鹿らしく滑稽に思えた。
―――可能性の完全拒絶を、残された自由と見間違えるところだった・・・。
薬に拘束されたボクの意識は、そう思った。可能性を拒絶さえしなければ、その先に必ず道は拓かれる。先ほどまでとは、まったく別の思考がボクの中にいた。
しばらくして、脳が勝手に執筆活動を再開した。研ぎ澄まされていく感性の中で、小説の主人公が静かに行動を始める。ボクはそれを注意深く観察し、そしてキーボードをたたくだけだ。それは、とても楽な作業だった。
少なくともあと数時間は、この安定が続いてくれることだろう。森の緑が、輝きを増したかのようにまぶしかった。半月状の錠剤が、ボクの命をつなぎとめていた。
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