恋に落ちる

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 バスで移動中に発見した、小さなレストランに僕はいた。熱帯林の緑の端に、ぽつんとそれは建っていた。


「お皿、お下げしますね」と日本語が聞こえた。
 遅めのランチを終えて、ゲラの校正作業に没頭していた僕は、その日本語に現実の世界へと引き戻された。
 声の方向を見ると、若いウエイトレスが微笑んでいた。ブルーの服に白いエプロンの地味な制服だ。食事を運んできた子とは違った。たぶんは日本人の女性だった。
 なぜ彼女が日本語を使ったのだろうと考えて、答はすぐに出た。僕がゲラに書きなぐっていた文章が、英語でも現地語でもなく、漢字とひらがなで構成された日本語だったからだ。


 彼女は、テーブルの上にあった皿をトレイにのせると、「失礼しました」と、再び微笑んで席を離れていく。


 <恋に落ちる>という言葉がある。


 その瞬間がいつやってくるかを、誰も知ることはできない。しかし傾向として、それはある日ある時、突然訪れるものだ。突然の事態に狼狽する男がここにいること、そしてその原因が自分にあることを、彼女は知るはずがない。
 なぜ、彼女だったのかという理由付けを、僕は考えようとした。可愛かったから?笑顔が素敵だったから?日本人だったから?そもそも、恋の始まりに理由など必要だろうか。
 物語の世界なら、たぶんは僕がこの店に通い始めることで、ありきたりな展開が始まるに違いない。僕はそう思った。できることならそうしたかった。しかしその方向への展開は、不可能に近かった。
 夕方の便で、僕は日本へ戻らなければならない。マリンブルーの海に囲まれたこの島は、毎日通うには、あまりに遠すぎた。移動や手続きの時間を考えると、そろそろ店を出る必要があった。


「チェックをお願いします」
 と僕は日本語で彼女にいった。生まれたばかりの恋が終わる。
「はい」と、彼女が伝票を持ってきてテーブルにおいた。
「お車ですか?」と彼女がきいた。
「いえ、バスです」僕がそう答えると、彼女の表情が少しだけくもった。
「バスは、夕方までありませんが」


「夕方ですか。実は僕、夕方の飛行機で」
 迂闊だった。バスの本数を、都会の感覚で勝手に捉えていた。彼女は親指をあごに軽くあて、何かを考えている様子だった。


「十分程、お待ちいただけますか?」と彼女はいった。
「はい?」僕は彼女の言葉の意味をうまく理解できなかった。
「私、これで仕事終わりなんです。車で空港までお送りします」
「え?」
「気にしないで。私のアパートメントも空港方向ですから」
 彼女はそういってカウンターの奥に消えた。僕はランチ代にチップをのせた額をテーブルの上に置いた。ゲラとペンを革のトランクにしまった。窓の外を見た。熱帯林を壁にして直線道路が続いているのが見える。そのはるか先に、空港があるはずだった。
「おまたせしました。行きましょう」
 そこには、白のタンクトップにデニムの彼女がいた。デニムが長い足にフィットしていた。おろした栗色の長い髪が笑顔にゆれた。僕は、彼女の美しさに眩暈がした。
 空港までは、たぶん三十分ほどの距離だろう。生まれたばかりの恋は、すこしだけ延命することに成功していた。そしてそれは、さらに続く可能性さえ、きっとあるはずだった。



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