夢の定義

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「おいあんた、カネ忘れてるって!」
 背後からの声に振り返ると、甚平姿の初老の男が立っていた。ATMの現金取り出し口を指差している。
「すみません。うっかりして」
「うっかりってあんた、高い利子のついたカネ引き出して、それ忘れるんかい?気をつけなあかんよ!」


 俺は現金とカードを取って頭を下げ、小走りに店を出た。現金は10万円だった。あと30万円は借りられるだろうと思い、消費者金融のATMへ足を運んでいた。貸し出し限度額が、一方的に引き下げられていた。消費者金融にカネを貸せないといわれた事実に動揺し、引き出した現金に手をつけず、ふらふらとATMを離れようとしていたらしい。


 まさに崖っぷちに立っていた。もう後退の余地はなかった。返済が滞ったことはまだなかった。だた、借り入れては利子を払う借金地獄は、すでに破綻寸前の状態となっていた。


 大きな夢を抱き、その夢の大きさの十分の一ほどの小さな居酒屋をはじめたのは、三年前のことだ。開店当時は、知り合いを中心として連日客がやってきてくれた。しかし日を追うごとに客数は減り、経営はすぐに行き詰った。
「うまくいかないのなら、早めに閉めるのも手だぞ」
 税理士の友人は、早くからそう助言してくれていたが、せっかく実現した夢を、そう簡単に諦めるわけにはいかなかった。蓄えはすぐに底をつき、代わりに債務が膨らんだ。


 店に向かって商店街を歩いていると、前方から小さな女の子が走ってくるのが見えた。黄色い帽子と赤いランドセルだけが元気に跳ねているようだ。
「お父さ~ん!」
 今年小学校に入学したばかりの娘だった。
「これからお店?」
「そうだよ」
「いつもお仕事大変だね。お父さんに負けないように、わたしも一生懸命お勉強するからね」


 妻に似て良くできた娘は、そういうと俺に手を振った。店と家は別々の方向にあった。小さくなっていく娘の後姿を、俺は立ち止まって見送った。


「夢って何だろう」と俺はつぶやいた。このままでは、小さなあの子や妻の幸せを奪うことになるかもしれない。それをわかっていながら、これ以上意地を張ることに何の意味があるのだろうか。


 店を居抜きで買いたいという人はいた。権利金を返済に充てれば、少なくとも、金利の高い借金は返済することができるはずだった。あとは仕事を選ばず、いくつも掛け持って必死に働けば、何とかなるに違いない。


――― また一から、やり直せばいいんだ。


 こだわりを捨て、這い上がることのみを考えたとき、今までの不安や迷いが一気に払拭された気がした。結局俺は、店という自分の城の中で、逃げていただけなのかもしれない。悲惨な現状に目を閉じたまま、動くことを拒絶していただけだった。


 夢は一つではない。


 新たな夢を再構築することができたなら、その夢へと続く道も自然にできるものだ。娘が見えなくなってから、俺は店に向かって歩き始めた。これまでの自分とは違う、力強い足取りだった。新たに生まれた夢が、俺に力を与えてくれているに違いなかった。



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