大きくなったら
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鍵穴に鍵を差し込んで右に回す。俺はゆっくりドアを開けた。
「ただいま」
誰からの返事もなかった。一階のリビングに人影はない。最近では珍しくなった柱時計が、カチ、カチと大きな音を立て、0時30分を指している。
一銭の金にもならない連日のサービス残業は、俺の人生にとって、どのような意味をもたらすのだろう。エンドレスに続く単純作業の向こう側には、ほんの一筋の明かりすら見えない。
給料やボーナスは、今年もまた大幅にカットされた。嫌ならやめろということだ。自分の居場所が会社のどこにもないことに、俺は、はっきりと気づいていた。
―――ぼくは、大きくなったら社長になりたいです。
そう作文に書いた小学校三年生の時点において、俺の人生は、人とは異なるものとなるはずだった。しかしその方法を発見できぬまま、俺は三流大学の経済学部を卒業し、そのまま可もなく不可もない企業に入社した。
「20年間の伝票整理が、俺のスキルか」
そういいながら、俺はネクタイを緩め、ダイニングの椅子にゆっくりと腰掛けた。テーブルには、一通の茶封筒が置かれていた。その中身が何であるのかの大方の予想はできた。
ここ数ヶ月の妻の望みは、一枚の紙に集約されていた。俺のやるべきことは、サインと捺印だけだろう。見渡すと、いつになく家の中が片付いている。あったはずの物が、いくつもそこになかった。
俺は家族と会社のために、一生懸命に仕事を続けた。家族を大事にし、良き夫も演出し続けた。娘には厳しかったが、それは娘の将来を考えてのことだ。今までの人生の中で、人に言えないようなやましい事は何一つない。平凡な人生を後悔し続けたのは確かだが、それを家族に漏らしたこともなかったはずだ。
「俺のどこが悪かったというのだ!」
俺の声が、ダイニングから暗いリビングへと響いた。時を刻む柱時計の音が、ついでに俺の声も切り刻んだ気がした。
突然、こめかみの部分に刺すような痛みが走り、目に溢れ出る液体が、視界を大きくゆがませてゆく。とても懐かしい、不思議な感覚だった。俺は抑えることをせず嗚咽をあげた。誰もいなくなった家の中で、声を抑える必要など、どこにもなかった。
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